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  • 2008.12.16 Tuesday
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エコノミストの正体

以前に「えせエコノミスト」がテレビで大手を振ってコメントしているから、世論が惑わされるのではないか、ミスリードされているのではないか、とブログに書いたことがありました。

昨日の『エコノミストは信用できるか』の中に、時系列で各エコノミストの意見の変遷(!)を明らかにしている部分がありますので、ご紹介します。

『エコノミストは信用できるか』東谷 暁 著 2003年11月発行 より


繁栄したのはエコノミストだけ(P.13)

90年代のバブル崩壊後、日本経済が低迷するにしたがい、ほとんどの分野が縮小を余儀なくされたにもかかわらず、逆に経済が低迷すればするほど拡大を続け、わが世の春を謳歌した市場がある。「エコノミスト」あるいは「経済評論家」と呼ばれる人たちの市場である。

官庁エコノミストの原田泰氏は「この10年は、日本経済にとっては不幸な10年だが、日本の“経済学”にとっては『豊穣な10年』の開始となる可能性がある」と述べ(週刊ダイヤモンド99年3月13日号)、また、JFJ総合研究所の山崎元氏は「ある意味でエコノミスト自身が、自分たちの仕事の有効需要を作り出してきたのかもしれません」と語っている(『文芸春秋』2002年12月号)。

毎日、失業の不安に慄くサラリーマンや、借金の返済に追われる中小・零細企業経営者が聞いたら、「肝心の経済のほうはどうなんだ、日本のエコノミーはどうなんだ」と言いたくなる発言というべきだろう。

しかし、こうした発言はエコノミストからすれば実感をともなったきわめて自然なものだったに違いない。財政出動、財政構造改革、不良債権処理、金融緩和などなど、次から次に登場した日本経済回復の処方箋について、エコノミストたちは賛否を論じて倦む事がなかった。

エコノミストたちはにとっては腕を振るうべき舞台が急増し、さまざまな説を述べれば述べるほど、それが新しい論争を呼ぶという事態だった。

ある資産運用コンサルタントから聞いた話では、エコノミストや経済評論家から資産の運用の相談を受けることが多くなったという。「いまエコノミストや経済評論家は景気いいですよ。どうですか、あなたも」と言われた。テレビ、新聞、雑誌からの引き合いが多く、そのお蔭でエコノミストや経済評論家の経済は好況になったわけだ。

その結果、日本経済は回復しただろうか。少なくともいまのところ、本格的な回復にはほとんど遠く、さらに経済回復の論争事態が袋小路に入っているように見える。経済学が豊かになったのではなくて、エコノミストたちが豊かになったのである。


公衆インテリ市場の構造(P.16)

アメリカの法律家・評論家のリチャード・ポズナー
『パブリック・インテレクチャルズ−その衰退の研究』(ハーバード大学出版)のなかで「公衆インテリ市場」の均衡について論じている。
(略)
「正常」需要側を、だいたい次のように述べている。
「マスコミは彼ら自身が主体的な需要側にいるというより、視聴者という需要を公衆インテリという供給側につなぐパイプというべきだろう。もしエコノミストが『この料金は適切ではない』ことを論文で明らかにしたとしても、視聴者からすれば興味深いけれども、単なるデータ以上のものではない。しかし、視聴者に伝達するのがずっと上手いマスコミ関係者なら、この事実をわかりやすく報道することができるだろう」

次に「正常」な供給側はどうだろうか。
「マスコミは、公衆インテリと共生的な関係を維持している。マスコミは膨大な印刷物と電子媒体のスペースを埋めなくてはならない。公衆インテリは、彼自身のためと彼が書いた本や大衆向け発言のためにパブリシティを望み、テレビやラジオのトークショウに出演したり、出版物に書き物を発表したがる」

この需要と供給の交差するところに均衡が生まれるわけだが、ここにいたるには両方の側で問題がいくつもある。たとえば、需要側では分かりやすいデータを何よりも好むようになるし、供給側では受け入れられやすい発言をしがちになる。また、両方に共通するのは「安価にすませたい」というインセンティブが強く働くことである。

「われわれは社会的に価値ある生産物を生み出すという観点から、公衆インテリ市場がうまく機能しているかを考えねばならない。‥‥しかし、公衆インテリの仕事が情報であって、娯楽や商品としての価値が重視されるのでないとすれば、この市場は十分に機能しているとはいいがたい」

というのは、何より「公衆インテリ市場では品質管理がまったく存在せず」、そのため「彼らの言説がきわめて極端なものに傾きがちとなるからである」。
かくして公衆インテリ市場は社会的に価値ある情報を多く生み出すことができず、「市場の失敗」が常につきまとうことになるのである。


市場の「テーマ」はどこから来るか(P.18)

ポズナーは、標準的な市場モデルをもとに話を展開しているので、あたかも需要側も供給側も「共生」のなかで同じ市場支配力をもっているかのような印象を受ける。しかし、この10余年を考えれば分かるように、エコノミストの市場においては論調がしばしばワンパターンになることが多い。これではとても市場が成功しているとはいえない。
(略)
ここで試みに、最大の経済情報生産企業である日本経済新聞社の記事データベースで、いくつかのテーマについて登場頻度の推移を見てみよう。

「財政出動」
90年 4件
93年 134件
95年 137件
96年 84件 ← 財政構造改革が叫ばれた
97年 336件 ← 金融危機はじまる
98年 512件 ← 橋本政権崩壊

「財政改革」
94年 325件 ← 急伸
96年 728件
97年 1230件
98年 573件 ← 小渕内閣成立
99年 323件

「IT革命」
90〜95年 0件
96年 2件
97年 1件
98年 15件
99年 54件
2000年 905件 ←激増

「量的緩和」
90〜97年 ほとんど一桁、多くても12件
98年 73件
99年 437件
2000年 107件
2001年 962件 ← 急伸

もちろん、これだけのデータから、経済論争を日本経済新聞社が支配しているなどという気は毛頭ない。経済事件の発生は、日本経済新聞社といえどもコントロールすることなどできないからだ。

しかし、頻度数を手がかりに経済マスコミ全体の論調を振り返ることで浮かび上がってくるのは、この新聞社が時々のテーマをかなりの程度リードしており、場合によれば意図的に煽り、さらにテーマの解釈を流布してきたのではないかとの疑惑である。

たとえば「日本的経営」を見てみよう。これは厳密にいって「経済事件」ではないから、特に取り上げたとすれば意図的だといえるだろう。
85年 126件
86年 154件
87件 154件
88件 199件
89年 200件 ← 最初のピーク・日本的経営を賞賛する頂点
90年 148件 ← 株価暴落
91年 194件
93年 228件 ← 80年代の水準を超える・日本的経営を批判する頂点
94年 142件
95年 141件
96年 97件
97年 112件
98年 86件
99年 91件
2000年 55件
2001年 39件

もちろん読者の推察どおり、個々の記事に当たれば89年のピークと93年のピークは、意味がまったく異なっていることが判明する。
89年は日本的経営を賞賛する頂点で、ロンドンのブティックに日本資本が少し入っただけで、「日本的経営をミックス」などと報道していた。
93年はまったく逆に日本的経営を批判する頂点で、「ゆらぐ日本的経営」などの記事が次から次へと掲載された。

たった4年の間に日本経済新聞社は「日本的経営」の解釈を、過剰ともいえる絶賛から過剰ともいえる否定に180度変更し、エコノミスト市場での論点を「日本的経営」から「アメリカ型企業統治」に塗り替えていったのである。


市場外部の要素に従順なエコノミスト(P.20)

エコノミストの発言に大きな影響力をもつのは、経済報道で他を圧倒してきた新聞社だけではない。前述の小塩氏は『市場の声』のなかで「エコノミストの言説や新聞・雑誌の報道ぶりは、なぜこれほどまでにパターン化するのか」と問題を提起し、「その中身をよく吟味するとどう考えても整合的でない部分がある‥‥手厳しい政策批判のなかにも、結局のところは政府頼りの心理が潜んでいる」と指摘している。

日本のエコノミストは、しばしば政府の政策を厳しく批判するが、検討してみると政府が打ち出した方針に対して従順だというわけだ。これは先の財政出動、財政改革、IT革命、量的緩和についても当てはまることで、政府が何か新しい施策を打ち出すと、先を争ってその宣伝に努め、その結果を先取りするような発言が横行することになる。

たとえば「規制緩和」や「ビッグ・バン」についても、この傾向は強かった。規制緩和が政策に盛り込まれるとみるや、「規制緩和でジュースのなかにもビタミンが入る」「規制緩和で世界中の製品が買えるようになる」と煽り、ビッグ・バンが予告されると「ビッグ・バンで海外の高い利子を利用して蓄財できる」「ビッグ・バンで国内でもドルで買い物ができる」などと宣伝したのは、日本のエコノミストたちだったのだ。

エコノミストたちが発言の指標としているのは、経済マスコミや政府の方針にとどまらない。さらにアメリカの動向にも熱心に耳を傾けている。いや、多くのエコノミストにとって、最大の基準はアメリカの動向だとすらいえるだろう。

この強力な指標には2つのレベルがある。ひとつはアメリカ政府の「政策」である。89年から90年にかけて開催された「日米構造協議」を持ち出すまでもない。日本政府がどのような経済政策を採用するかは、アメリカ政府が何を日本に要求してくるかで決まる。

それは内需拡大といって大枠の要求から始まって、通信回線の接続料の値下げまで、アメリカの意図を先読みすれば、エコノミストの「予測」能力は飛躍的に向上する。

90年代、アメリカの民主党政権は時刻のマクロ政策では「財政緊縮・金融緩和」が基本となっていたが、日本に「財政拡大」による内需拡大を要求した。というのは、利害調整や効果速度を考えると、政治的には財政拡大のほうが手っ取り早いからだ。

2000年に共和党政策に代わるとアメリカの経済学者たちは盛んに前政権の誤った経済政策強制を告発するようになった。しかしこれなど、アメリカの政府のみならず、経済学者もご都合主義だったことを示す例といえるだろう。

アメリカが最大の基準であるのは、政策レベルだけではない。科学的客観性をもつように見える「アカデミズム」の経済学においても、その傾向が強い。代表的なのが、最近お「インフレ・ターゲット論」で、この議論を最初に提示したのが、アメリカの人気経済学者ポール・クルーグマンでなかったら、ここまで日本の経済学者たちの関心を支配したかは疑わしい。

さらにアメリカの代表的なインフレ・ターゲット論者ベン・S・バーナンキが2002年5月に連邦準備制度理事会に入ると、日本のインフレ・ターゲット論者たちは、時節にお墨付きを与えられたかのように沸き立った。本当の効果が照明されていない学説で、ここまで盛り上がりをみたのは、20世紀初頭のマルクス経済学研究者がロシア革命やドイツ革命の開始を聞いたときくらいだろう。


バブル崩壊によっても価値が暴落しない人たち(P.24)


「人気エコノミスト20人 本当の実力」(文藝春秋 99年8月号)
「エコノミスト25人の値打ち」(同 2001年7月号)
「精鋭エコノミスト10人の『緊急提言』(諸君!2001年5月号)
「誰が日本経済を救えるのか!」(日本経済出版社)
(略)
(著者が上記のリポートを発表したところ)
ある経済評論家から「私に何か恨みでもあるのか」で始まる手紙が送られてきた。ここまでは、覚悟していたことなので驚きはしなかったが、その内容には驚かざるをえなかった。

手紙の主は「マスコミ露出度でエコノミストの評価が決まる」とあっさり認め、「私は90年代以降テレビ、ラジオ、新聞、雑誌等のメディアのの登場回数で上位5位にランクされる」と自画自賛。

さらには、「エコノミストとして立つためには、状況を読んで方向を決めたら声高に語気強く主張する、前に何を言ったかに関わらず時によっては平気でウソを吐く精神力の強さも持ち合わせなければディベートに勝つことはできない」と私にエコノミストの心得を説教していたのだ。

このエコノミストの発言や著作を検討すれば、ここでいう「状況」とは、経済そのものではなく、「エコノミストの市場」の「状況」に過ぎないことはすぐにわかる。経済減少を視ていたのではなく、エコノミストの声の需要状態を見ていたのだ。だいたい、私はこの人物が本当の意味でディベートを行っているのなど見たことがない。

しかし、さらに驚いたのは、主張に一貫性のあることで知られるエコノミストに、名前は伏せて手紙について話したところ、このエコノミストは手紙の主にかなり同情的だったことである。彼もまた、マスコミから自分の主張とは関係なく、支配的な論点を肯定的に論じて欲しいと要求されて困ることが多いと語っていた。こうした事実にも、エコノミストの市場の失敗が如実に表れているというべきだろう。


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トンデモ・エコノミストが多すぎる

昨日に引き続き、エコノミストについて考えてみます。以下の書籍でも、いわゆる「エコノミスト」と呼ばれる人種に対して苦言を呈しています。

「経済学を知らないエコノミストたち」野口旭 著 2002年6月発行 より


経済学を無視する無謀な「経済専門家」(P.61)

私の仕事は、大学で経済学を教えたり研究したりすることであるから、一応は経済の「専門家」である。

しかし世の中には、私のような大学関係者以外にも、数多くの経済専門家がいる。マスメディアに登場して経済問題の解説をしたり、ビジネスマン向けの経済誌に論文を書いたりしている人々である。

なぜか日本では、大学関係者は「経済学者」、そしてマスメディア関係者は「エコノミスト」と呼んで区別するのが習わしになっているが、そのような区別に本質的な意味があるわけではない。
(略)
ところで、マスメディアに頻繁に出てくる経済専門家は、「経済学者」よりもいわゆる「エコノミスト」の方が圧倒的に多い。

経済学者は、現実的というよりも原理的・理論的な研究に従事しているケースが多いのだから、これはある意味で当然である。
「科学者と技術者」と同様に、「経済学者とエコノミスト」の間にも一定の分業があってしかるべきであろう。

問題は、現実の分業関係が、本来の姿とはかけ離れているところにある。
医学なき医療は「まじない」であり、科学なき工学はただの「トンデモ」であろう。

しかし、このまじないやトンデモに類する「経済学なき経済論議」がいわゆる「経済論壇」にはあまりにも多いのである。

それどころか、「経済学は間違っている」と堂々と公言する人さえいる。それは私は、トンデモ・エコノミストであることを自ら宣言しているに等しいと思われるのだが。
(略)


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